彼の名はノクティルナ。
彼は夜を旅する吸血鬼である。
だが十字架を怖がらず、光を恐れない。
そんな異端の吸血鬼である彼は、この生きにくい中世の闇を今日も旅している。
黒い外套の裾を風に揺らし、
ノクティルナは村はずれの廃井戸のそばで足を止めた。
そこには三匹の猫がいて、彼の足元にまとわりつくように寄ってくる。
「おまえたちは、恐れないのだな」
猫たちは喉を鳴らし、彼の指先に頬を寄せた。
吸血鬼の冷たい体温にも怯えず、むしろ安心しているようだった。
ノクティルナが膝を折り、猫たちの頭を撫でていると、
背後から小さな声がした。
「……あなた、だれ?」
振り返ると、月明かりの下にひとりの少女が立っていた。
年の頃は十歳ほど。
薄い外套を羽織り、手には古びた籠を抱えている。
「ただの旅人だよ。夜に迷い込んだだけのね」
少女は彼をじっと見つめる。
恐怖の色はない。
むしろ、どこか懐かしさを感じているような、不思議なまなざしだった。
猫の一匹が少女の足元に寄り添ったとき、
少女の袖口から覗いた痣が、月光に淡く浮かび上がる。
ノクティルナの瞳がわずかに揺れた。
吸血鬼である彼は、
血の匂い、恐怖の匂い、
そして“人に触れられた痕跡”を敏感に嗅ぎ分ける。
少女の身体に刻まれた痕は、
子どもが負うにはあまりに不自然で、
あまりに痛ましいものだった。
――男たちにもてあそばれている。
その事実が、言葉より先にノクティルナの胸に落ちた。
少女は孤児だった。
村の誰も守らず、誰も気に留めない存在。
夜に紛れて逃げ出すように歩くしかなかった。
「……ここは、おまえのいる場所ではない」
ノクティルナの声は、怒りでも哀れみでもなく、
ただ“闇の旅人”としての静かな決意を帯びていた。
やがてノクティルナは、少女を傷つけていた男たちの元へ向かう。
その中心にいたのは、村で“神の代弁者”と呼ばれる聖職者だった。
昼は祈りを捧げ、夜は説教をし、
村人から敬われる存在。
だがその祈りは偽りで、その手は少女の涙で汚れていた。
ノクティルナは、その男の“匂い”を一瞬で理解した。
祈りの言葉の裏に潜む、腐った欲望と支配の影。
ノクティルナは聖職者の前に立つと、
まるで光に追われるように、わざと後ずさった。
「……お前は神の手のものかッ」
その言葉を残し、ノクティルナは闇に溶けるように姿を消した。
逃げたように見せかけて。
残されたのは、少女と、震える男たち。
ノクティルナが消えた後、男たちはその場に崩れ落ちた。
聖職者は震え、他の男たちは泣きながら少女に縋りつく。
「ゆ、許してくれ……」
「神の御使い……どうか……」
少女は何も言わない。
ただ、月明かりの中に立っているだけ。
だがその沈黙が、彼らには“神の裁き”に見えた。
翌日から、村の空気は一変した。
少女は“神に選ばれた子”として扱われ、
食事も寝床も与えられ、
誰も彼女に触れようとしなくなった。
むしろ、彼女の前では誰もが頭を垂れた。
ノクティルナが仕掛けた“恐怖の演出”は、
少女を守るための盾となった。
村の外れ、猫たちが集まる廃井戸のそばで、
ノクティルナは静かに夜風を受けていた。
「……これでいい」
彼は少女の姿を遠くから見つめ、
ゆっくりと背を向ける。
少女の物語は、そこで静かに幕を閉じた。
ノクティルナは、村の灯りを背に、ゆっくりと歩き出す。
その背中には、少女の小さな姿が淡く映っていた。
守るべきものを守り終えた者の、静かな余韻だけが残る。
そのときだった。
闇の底から、細い声がする。
「うまくやったね。あんた。」
ノクティルナは足を止め、振り返る。
そこには、一匹の黒猫がいた。
夜よりも黒く、影よりも静かで、
金の瞳だけが月光を切り裂くように光っている。
ノクティルナは短く答えた。
「……ありがとう。」
黒猫は長い尻尾をぴんと立て、
まるで闇そのものが形を持ったように揺らした。
「俺もついてくよ。
俺の名は Atrum(アトルム)。
ただの猫じゃなぃ……」
ノクティルナは何も言わず、再び歩き始める。
アトルムはその横に並び、影のように寄り添った。
ただの猫ではない黒猫と、
十字架も光も恐れぬ異端の吸血鬼。
二人の出会いは、音もなく、
深い闇へと溶けていった。